高松でCM撮影

22~24までの3日間、高松で地上波向けのCMを依頼され撮影。15秒を3本、30秒を1本の映像のために撮影した映像は計219GB4Kで撮ってFHDで出そうと思い多目に、9人と1匹を撮影。

さすがに今日はヘロヘロになりながら、撮った映像を確認。さて、どんな風になるか。

心に残ったのは千葉から呼び寄せている両親を撮影したこと。カメラマンだった80を過ぎたオヤジが、「なんなら三脚持つよ」とわりと楽しそうに言ってくれたこと。たぶん今後持ってもらうことは少ないだろうけど、ちょっとグッと来ることは来た。その後アドバイスをもらって、両親を安ホテルではなくて、花樹海というかなり良いホテルに一緒に泊まることにした。結果的に、後どんだけできるかわからない親孝行に。

良い機会をくれたDNAの柳沢さん、ほんとうにありがとうございました。

年内にオンエア開始され、来年も流れる予定の映像、編集がんばります。


続く。


御船祭@新宮(後編)

二日目の午前は熊野速玉神社境内にて各グループの必勝祈願を撮る。場所取りがいろいろ難しく、やたらイラチな中年のカメラマンに何度もダメだしをされたり軽く叩かれたり、おまえら誰だ的なことを言われるがこちらも仕事である。逆に他の会社の人とは仲良くなって撮影時に共同戦線を張る的に友好的に撮影するなどのこともあった。とにかくやたらせわしい。レースのスタートまで時間があるので、昼を食べてコメダ珈琲で休んだりする。

14:00~神輿が担がれる。前日と同じ白馬に今度は人形のようなものをのせ、それに神様を吹きこんだようだ。巫女やら氏子やらが後を続き、河原まで歩く。が、神輿がこないためある場所からじっと動かなくなる。僕は救護船に乗れなかったら大事なのでそれまでウロチョロした後はスタンバる。トシロウはオーディエンスをかき分けてタイムラプスを設置しに向かった。 

16:30から祭はスタート。男達が河原を全速で走って舟に乗り込み、一気に漕ぎ出した。僕はオン・ザ・シップである。何も水から身と機材を守るためのモノはない。救護船といいつつ、家族なのかそれぞれの地区の代表者なのか、そういう人が10人ほど乗る船の最前に他のカメラマンと身を屈めて9つの舟列を追った。無論三脚の使用は却下されているので手持ちである。

僕は事細かな「記録」であることはハナから考えてはいなかった。脳裏にあったのは、『産土』の山伏編の撮影時、ベン・ラッフェルが用いた手法だった。とにかく美しく撮る。それだけ考えていた。ニュース的な映像で見たのは上から撮ったどうでも良い映像だ。それを見て視聴者が何かを感じることはあるだろうか。「ない」と断定することから方向は生まれる。だいたい4K60Pのスローモーションで撮った。フルHDにすれば120Pまで撮れるのだが、それだと長すぎるし、ドキュメンタリーには向かない。第一現場で設定を弄っている暇もない。60PにはFS7SQボタンというのを一回押せばなるため、重宝している。無我夢中で撮った。

僕の乗る船は途中で岸に着き、そこからは河原から出来るだけ身を乗り出して、眼前の御蔵島を周回する舟を撮った。そして、レースが終わる。僕の追っていた丹鶴地区は優勝ならず。しょげかえっていたので声もかけれなかった。 

河原で島田がいるのを発見。どうやら成功したようだ。河原で他の車でぎゅうぎゅうで駐車を諦めかけたが、僕の車が四駆なので砂利道にただ一車のみ停められて、なんとかたどり着いたあ。レースが終わって勝敗が付いた後もなにやら一際大きな船が回っている。ここでハリハリ踊りというものが踊られていると調べていたが、gh4に200mmを着けて4Kで撮るので、実質300mmのカメラでも何も映らない。禁足地だという御船島に神主と二人の巫女が立ち尽くしているのが豆粒のように見える。やたら冷え込んできた河原で、半裸の男たちの歓喜と落胆とが交錯する。 

対岸の廃墟的施設に機材を回収しに戻ると既に暗くなっていた。そこでとある方にカメラの見張りをしてもらっていた。5D3はまだ回っていた。確認するとマジックアワーの夕闇に消えゆく感じが、かなりいい感じで撮れていた。回収して撤収。ここでもトシロウの身体能力の凄さにちょっと唖然とする。ホテルに戻る。川の水がだいぶ機材に付いたようだ。川と言っても、ほとんどすぐ海の汽水域の水だ。途中でアルコール液を買い、全機材をトシロウを掃除とデータ移動をし、今晩こそは地元の酒場に入りたくなりロビーで聞いて行ってみることに。ホテルから歩いて10分程の居酒屋に入る。ここで星山さんという方と、3人のマダムたちと横に座ったのが縁で語らった。新宮を撮りに来るならば、2月の火祭りにこなければダメだと言われた。客席にはイルカ漁をするという若い漁師もいたり、メニューにイルカの刺身があったりと土地柄を感じるには十分だった。星山さんとは痛風同士ということで親密になった…。

和歌山弁のレッスンを受ける。「行こうよ」が「いこら」。ばりウマイのばりが、ばりではなくて「わり」。そしていろんな店で「おおきに〜」が響く。

こういうところかなあ。

那智黒ソフト。

佐藤春夫記念館にあった昔の地図

中辺路で立ち寄った喫茶店の横の廃墟…。

直線距離で帰らないのな。

三日目、とある方は早朝に帰ってしまったので、このまま帰徳するのもやや癪なので、少しだけ新宮を見て回ることにした。撮影でほぼ何も見ていない熊野速玉神社に。

境内の中に、この辺りが生家だったという佐藤春夫記念館があったので意味もなく入る。どちらかというと嫌いな世界観だ。勝手にしろという気になるようなスノッブさを感じる。だが、一枚の写真を発見。それは、佐藤春夫が谷崎潤一郎から譲り受けた千代と赤ん坊の長男方哉、そして千代の連れ子である鮎子と4人で写っている写真だった。この鮎子の顔がビジネスホテルの朝食を配膳してくれた妙にエロいメガネっ子の店員と生き写しであることに気づいた。どうでもいいことだが、こんなところに転生しているのかと無想すると疲れがややとれた。春夫の奇妙な朗読が響くその館内を歩いて、他にも自作詩を書いたものにも目が止まった。書はかなりいい。

「都大路は我に衣なく、馬に草なし 帰りざらめや 山に老いまし」とある。

最後の「老いまし」のところが、「老い万志」となっていて、最後の「志」が変体仮名でぐにゃぐにゃになっているのがやたらカッコイイなあと思って模写してしまったほど。「カエリザラメヤ、ヤマニオイマシ」という響きも良い。良いというかやたら脳裏でループしてしまった。せっかくなので佐藤春夫も或いは鮎子もここで用をたしたに違いない瀟洒な洋風トイレで一座建立して出る。

境内で木造の小屋でミカンを売っているのおばちゃんと話してみた。三重県の中に飛地となっている北山村という村があり、「じゃばら」という種類のミカンを唯一栽培しているということを聞いた。また、この辺り一帯は昔は「川原屋」と呼ばれていた木造の家が軒を連ねていたのだという。釘を使わず、すぐに解体がすぐできるように考案されていた。まさに0円ハウスのような世界観があったのだ。理由は、洪水や台風による熊野川の氾濫である。そしてこの辺り一帯は、奥から川を下って山の男たちが木を運んでくる場所だった。つまり、遊郭があった。それとなしにそのような空気を探して町を歩いてみた。気配みたいなものはあったかもだ。


帰りはまた和歌山港に戻り、そこから徳島へ。 

この映像は、2月には公開できることになりそうス。


続く。 


三番叟(さんばそう)の撮影

22時で断水するので急いで風呂に入った後の時間、今日撮った動画の素材をHDDに流し込んでいる。本日のファイルサイズは78GB。インタビューとインサートのみなので、データ量が3~4倍になりそうな高画質モード、すなわちXAVC-I(イントラ)モードで撮ったのだが、結局はいつもの量になってしまった。

13:30に勝浦町の道の駅/よってね市で待ち合わせだったのが、神山から勝浦方面へと抜ける道が工事中なのをすっかり忘れていた。55線まで迂回したためかなり遅刻してしまった。

ここ数日書くことに喜びを覚えだしたようだ。それが自分でも意外に感じる。こんなことは数年なかった。道や水道の工事が年末調整として連打されるように、映像も年末は大忙しとなるのだが、こうして日誌をせっせと書くだけの体力は残っているようだ。

久国地区の多目的研修集会施設という場所で人形による三番叟の練習風景を撮る。ここ勝浦の人形浄瑠璃のグループである「勝浦座」。勝浦の住民の20名程度が参加しているらしいが、三番叟を演じるのは、ここ久国(ひさくに)地区の人々だけだという。戦中に火事に遭い、記録が消失してしまったが、少なくとも200年は続いているのだという。演じるのは、毎年2月と9月。そして前回取材した10月4日の大宮八幡神社での秋祭りにてである。ちょっと前回の映像のカットを貼ってみる。

練習風景を撮り、インタビュー。意外なことに、話を聞いた三番叟の演じ手の3人の方々が実際やり始めてから6年程度ということ、また後継者がいないということなどを聞いた。三番叟というもの、実に奥が深い。これまで余り意識してこなかった己の不明を恥じる。仕事としてもらうものも、繋がってくるものである。

一番、二番、三番で数えらえれる人形/演者がいる。一番は千歳(せんざい)と呼ばれ、本来は若者が演じる。二番目は翁、メインの存在である。そして三番目が三番叟。「叟」は爺さんという意味のようだ。それが土地の神様だという。三番叟だけ足があり、演者である人形使いは「えしとっと」と言いながら五穀豊穣を祈願して大地を踏みしめるのだという。2月と9月は、村の守護神的存在の地鎮塔の前で演じる。おお、産土と関係してきた。次の2月は個人でも行こうと思う。が、それらは終わった後の雑談で聞いたもの、肝心のインタビューはというと、一様に口が重い。質問の一に対して、答えが一である。なんというか「ヨソユキの言葉」を持っていないような印象を受けた。

その集団内の人間関係を理解しようと努め、その人の過去や仕事や属性に、言うなれば「憑依」していかなければ、会話というものが成立しないような感覚がある。それにはそれで独特の魅力と、説得力とがある。が、「後継者」という名称の若者はいないし、そういう属性もない。結果的にそうなるか、ならないかのどちらかである。ウチだけではない、「ヨソユキの言葉」が要る。そう感じた。

なにも過剰にフィクション化したり、キャラクターを作ったり、必死に喧伝したらいいと言いたいわけではない。でも、なんとかならないかというもどかしさが溢れ出してきた。難しいのは、この三番叟はそもそも神事で女人不可、そして久国地区の人以外は不可というヘビーな禁忌があるということである。僕は今後に向けては禁忌を解いたり、いろいろなものをアレンジしていっていいように思っている人間だ。産土という映画を作っていく過程で、遵守だけではだめだと考えるようになってきた。そもそも人形浄瑠璃自体、変わっていくところもあるべきだと思っている。今のままでは橋下のような人間に足蹴にされて終わってしまう。三番叟で大事なのは祈るということだ。産土の神に、祈るということだ。

三番叟は「チリヤ タラリロウ タラリアガリ タラリタア」とイミフな言葉を歌う。

神様語なのかもしれない。その言葉には独特の強靭さを感じる。それを内向きの言葉のみで語ると、「意味がわからない」で終わる。が、そこにはそれだけではないものがある。それだけではないから、続いてきたのだとも思う。保護を受けたり、権威付けされたりすると、そのヨソユキが過剰になり過信に変わる。僕はその過信には付き合おうとは思わない。僕は小さな話を作りたいのだ。

いずれどこかに書こうと思っているが、一言で言えば、物語とは「なにかの問題が解決すること」だ。結局それだけだ。僕が映像屋としてクライアントから依頼されて、作るべきなのは、それだけなのである。無論、問題といいつつ多岐に渡り、解決といいつつ膨大な可能性がある。WEBの映像では、すべてを語り切らないほうがいい。(いや、すべてを語り切るなんて本来不可能だ)それを原則に据えたとして、どこまでそれに忠実になれるか。そんなことでこれから編集で悶々とするんだろう。

16:00ぐらいにその施設を辞し、30分くらい市内の方へ戻って、今でも浄瑠璃の人形を作っている甘利さんという方のご自宅へ。人形の顔を丁寧に削っていく様を撮る。サニー千葉に似てかなり味のある甘利さんが、「僕ら作り手は、人形を産むまでが仕事。育てるのは人形使いの仕事」と呟かれたのが印象に残った。

続く。

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